牛乳・乳製品にかかわる人たちから学校教育へのつながりを作っていただくことをとても期待していますので、少しでもそのお役に立てればと思っています。
学習指導要領改訂の方向性
学習指導要領は、それに基づいて教科書が作られて、先生方が子どもたちと教育実践をする、そのよりどころになるものです。文部科学省は10年に1回、学習指導要領を改訂します。小学校は2年前から、中学校は昨年、今年、高等学校の1年生が入学するところから順次新しいカリキュラムになっています。この学習指導要領改訂の方向性の中で一番大切なのは、「社会に開かれた教育課程を実現しましょう」と言っていることです。つまり、それぞれの地域の子どもたちを学校の先生だけが育てるのではなくて、保護者はもとより地域の方、そして地域の専門家や企業の方も一緒に育ててもらえませんかというのが文科省からのメッセージです。したがって、冒頭でお話ししたように、ここにいらっしゃる方がどんどん学校教育にかかわっていただけるということは、もろ手を挙げて賛成することであるし、これからの方向であるのは間違いありません。その中で、今日のテーマである食育、そしてSDGs、とりわけ食育から考えるSDGsは小・中・高校生にとっては最も手が届きやすい部分ですので、とても大事にしたいと考えています。
学校教育における食育(食に関する指導)の5W1H
学校教育における食に関する指導を文科省は「食に関する指導」と呼んだり「食育」と呼んだりするのですが、それを少し整理すると、「なぜ」食育かというのは子どもたちの健康課題や食文化や地域への理解とか、当然ながら持続可能な社会を実現するためにということです。
「いつ・どこで」やるかというと、教科や、小・中学校では多くの学校で学校給食の時間があります。今でも学校給食の時間も、黙って食べるという黙食になっています。一方で、黙って食べるから、味わうという良さができます。そういうことも考えてもいいなと思っています。環境というのは掲示だったり展示だったり、ICTの活用による動画の配信だったり、そういったことも食育をする場になります。「だれが」やるかは、多くの場合は栄養士が中心にならざるを得ません。それは栄養教諭として任用されている場合と学校栄養職員として任用されている場合があります。あと、教科の先生、家庭科だったり担任だったり、ゲストティーチャーと一緒にする。ただしこれは全ての教員がかかわっていくことが、今後大事な方向の一つです。
「なにを」というのは、6つの食育の視点を例示しています。食事の重要性や心身の健康、食品を選択する能力や感謝の心、社会性や食文化、これはいずれも牛乳・乳製品につながっていますよね。したがって牛乳・乳製品の価値がこの6つの食育の視点とどうつながっていくかを理解していただくということは、学校側とつながる上での大事な視点だと思っています。
文科省は学習指導要領に基づいて、「主体的・対話的で深い学びの実現」だったり、「個別最適な」といった新しいキャッチフレーズをどんどん使うものですから、学校現場は、そのキャッチフレーズに慣れるのに時間がかかって、慣れた頃には新しい学習指導要領が出るということがこのところずっと続いています。でも、一人一人に合った学びをつくるという方向は変わりません。このコロナの状況下で大きく進んだのがICTの活用です。
学習指導要領前文に「持続可能な社会の創り手」が明示
そして、今日のテーマにかかわる内容ですが、学習指導要領のイントロの部分で「持続可能な社会の創り手」ということを明示しています。つまり学習指導要領は社会に開かれた教育課程を実現する、そして子どもたちを持続可能な社会の創り手になってもらうようにすると明示されたということは、SDGsをやる、間違いなくやらないといけない、ということです。
ところが課題はあります。この学習指導要領に反応できるのは教育委員会で、一般の教員はどうかというと、教科書が変わると反応できます。つまり、日々の6時間授業は年間185日から200日近くあるので、一回一回学習指導要領を読みながら授業を進めていくというのは時間的にとても無理ですので、やはり教科書に頼らざるを得ないんですね。教科書にSDGsと書かれると、SDGsをやらないといけないのかなと反応するということです。もちろん教科書採択においては、SDGsとか特別支援教育とかジェンダーとか現在大事な教育課題に対応できているかどうかというのが基準になりますから、各教科書会社も明確にSDGsを意識した紙面にはしています。
一方、実践レベルで一番感度がいいのは栄養教諭です。既に学校給食を通して食品ロスの問題とか、あと学校教員の中で一番たくさんの職種とかかわっている可能性があるのが栄養教諭ですので、社会とつながっているという部分はあるんですね。また、栄養教諭は一般の教員以上に真面目です。研修会をやると、一般の教員は子どもたちに「教室は間違うところだ。進んで学ぼう」と言いながら後ろから座っていきますが、栄養教諭は言われなくても前から座ります。真面目なんですね。
もう一つは、ひとり職ですので学ぶ機会がないことです。学校がうまく回っているところは栄養教諭と校長の心が通っています。お互いにひとり職だから、互いを慰め合えるんですね。このあたりが栄養教諭の研修ということを考えることでも意味があることだと思います。それぞれの学校ではひとり職にならざるを得ない部分があるから、それをどうやってサポートしていくかということが大事です。
問題はSDGsをトピックとして考えてしまう危険性をはらんでいるということです。私は食育を意識的にやってきたというよりも、子どもの暮らしをどう考えるかということに取り組んできた中で、環境教育であったりSDGsであったり、消費者教育であったり食農教育であったり、食育だったりに出会ってきたのですが、環境教育と同じ轍を踏む危険性を持っています。
SDGsでも環境教育と同じ轍を踏む?
大阪の梅田に大きな電子看板があって、ある会社が子どもたちのポスターを集めていますと出ています。そのポスターは、「あなたはSDGsのために何ができるか」をテーマに子どもたちに描いてもらっています。
いいことではあるのですが、企業もSDGsという看板を掲げないと、社会的にもなかなか認知されない、残っていけないという部分があるのでやっている部分もあるのかなと思うのですが、「SDGsのために何ができるか」と子どもに聞くことは、極めてSDGs的ではないということを確認しておきたいと思っています。つまり、SDGsは確かにすばらしいことですけれど、2015年に国連に集まった一部の世界の頭脳の人たちが2030年を想定して作った17個のゴールに過ぎないんですよね。その時点で、このコロナのパンデミックは想定されたでしょうか、ウクライナのことは想定されたでしょうか。
一方で、今度は肯定的に言えば、2030年、今の小学生が大人の社会の担い手になっているときには17のゴールの幾つかは達成されているかもわかりませんし、新しいゴールが必要になるかもわかりません。つまり現在やっていることがSDGsとして意味があるんだよと考えていく、もしくは、SDGsの視点から見ると、現在やっていることの中で何か十分でなかったり、もう少し付け加えたらいいことはないか?を考えたい、というようにすることが教育的に意味のあることだと考えています。
現に国連もESD for 2030というのを示しました。これは2030年のためのESD(Education for Sustainable Developmentの略で「持続可能な開発のための教育」)。ESDは日本が世界に提唱した考え方ですけど、その後、SDGsが出てきたものですから慌てたんですね。そこで整合性を持たせるためにSDGsの中の教育の部分がESDですよ、と整理したんですけど、ここで何が言われているかというと、ESDを文化に、当たり前のようなものにしたいなということです。
つまり、それが2番の「困った御三家」を生まないということなんですね。これは学校の中の話です。皆さんこういうことは無いと思われることもあると思いますけど、先生方もすごく真面目なので、環境教育を何かやらないといけないとなると、ここにすがったんです。例えばリサイクルの工作。お子さんが学校で捨てられてしまうペットボトルや牛乳パックに針金を巻いて、何かおもちゃをつくって持って帰ってきたことがあったと思うんですね。あれをよく考えてみると、針金を巻きつけてくれなかったらちゃんと分別できるのにねということがあるじゃないですか。そこに少し気づかなかったんですよね。リサイクルしてるからいいでしょという話です。
それと、牛乳パックで紙をすく。これは調べてみると、太平洋戦争のころに日本の紙事情が悪かったときにやったり、外国から日本にパルプが入ってこなかったときにやったことなんだそうです。牛乳パックでリサイクルをするというのは一部を捉えると美しいですけど、じゃあ牛乳パックを溶かす、潰すのに使う電気代はどこから来るのかなという全体性についての気づきが十分でなかったんですね。
あと、私の専門ですけど、ホタルを放すという活動もトピックとしてよく使われます。ホタルは川筋でDNAが違うので、たとえ100メートル離れている谷でも、Aの谷でとったホタルをBの谷に離すことは生態系を乱すことになる。ましてやコスモスを植栽するというのは全くナンセンスなことなんです。もちろん堤防を強くするために葛を植えるとかいうのはまた少し別な話です。つまり、学校の中では先生が真面目にするものだから、全体性や循環ということに十分目が行かないという危険性を持っているんですね。
あと、「アフリカや遠い国のために」という問いかけ。「アフリカではこんなにたくさんの人たちが飢餓で苦しんでいますから、みんな何ができる?」と言われても、その言ってる先生もアフリカに行ったことはないと思うんですよね。そして今、飢餓と言われても、小学校では6年生の社会科の天明の大飢饉まで「飢餓」という言葉を学習しません。もちろん今、子どもたちは情報や知識に幾らでもアクセスできますから、小学生の多くの子どもたちは飢餓という言葉は知っています。その内実を知らないまま言葉がひとり歩きすると、これはやはり行動じゃなくて批評とかになってしまって、動かないということになるんじゃないのかなと思います。
したがって、具体的で日常的で、子どもたちにとって手の届くものを足場にした学びが必要で、やはり期待しているのは毎日給食に出る牛乳です。かつ、スーパーに行くと食品売り場に必ず牛乳があったり、また、子どもたちの生活圏内の中に乳業メーカーがあったり、そうしたものがとても意味があるというのはこういうことでもあります。
食に関わる問題は「つながりが切れたこと」から生まれる
私は食育、食に関する問題というのは、つながりが切れたというところから生まれてくるんじゃないのかなと思っています。この写真は何をやっているかというと、手前に3人、用務員さん、女性校長、栄養教諭がいて、その前で子どもたちが朝ご飯をプレゼンテーションしています。こんな朝ご飯をつくるといいですねと言って、審査をしてもらって実際作るんですけど、「至高の朝食」というタイトルをつけました。この前の年は4年生で「究極の桜もち」という学習をしました。
このとき、子どもたちから何という感想が出てきたかというと、私はきっと、朝ご飯をつくることは大事だとか、バランスよく朝ご飯をつくらないといけないねという感想が出てくると思って、多くの子はそうだったんですけど、ある子は「うちの母さんはえらい」と書いてくれたんですね。何が偉いかというと、うちの母さんは朝忙しいのに、父さんを送り出して、弟と妹の面倒を見て、化粧して出ていくから偉いという感想を書いているんです。つまり、彼は今まで消費者として生きてきたのが、朝食の献立をつくる、初めてつくり手になったことで見えてきた世界があるんじゃないのかなと思うんですね。
テレビで「はじめてのおつかい」というのがありました。かわいいですよね。いいんですけど、子どもが社会に出ていく最初の行動が消費行動って悲しいなと私は思っています。「はじめての調理実習」とか「はじめての乳搾り」とか、そういうことって大事なんじゃないのかなと私は思っています。そこで最近とりわけ意識的に授業で取り上げて、飛び込みで授業をさせていただいています。SDGsに一番近いのはどうしても食ですので、とりわけ食品ロスを削減するというのは、これまでも学校教育の中でよくあったことなんですが、消費の場面になるから、やっぱり残さず食べよう、しっかり食べようなんですね。