牛乳否定本の登場
- 牛乳否定本の登場 -
害悪論者の急先鋒が、森下敬一というお医者さんでした。この人は、病気は食事で治す、薬を一切使わずにがんを玄米菜食で直すという自然医学を唱え、戦後にがんや心臓病が増えたのは食の西洋化が原因というのが持論でした。出した健康本は約100冊、60年代から雑誌にもしょっちゅう登場するマスコミの売れっ子でした。この森下医師は1984年に、そのものズバリの「牛乳を飲むとガンになる!?」という本を出しました。
どういうことが書いてあるかというと、牛乳のたんぱく質と脂肪は血液を汚して、体内のいたるところに炎症を発生させる。さらに、牛乳は大量生産・大量消費のアメリカ文化の象徴で、工業製品に堕している。発がん性だけでなく、超高温殺菌で肝心のたんぱく質とビタミン類も失われていると、徹底的に糾弾しています。それほど売れた本ではありませんが、今の牛乳否定本のまさに原形です。反米思想と結びつくことで、牛乳害悪論は強化されました。
それが1995年に出版された「粗食のすすめ」という本につながっていきます。この本も、戦後の栄養改善運動を否定し、「今こそ粗食に帰るべき」と説いて、140万部の大ベストセラーになりました。
欧米型の食生活を理想とするのは錯覚である、日本人の伝統的な食生活を見直そうというのが主旨です。具体的には、肉と牛乳とパンをやめて、ご飯と漬物、みそ汁をしっかり食べれば、おかずは野菜と魚を中心に、少しだけ摂ればよい。ようするに、日本が貧しかった頃の粗末な食事に戻れば健康になれるというものです。
ただ、「粗食のすすめ」は、牛乳に関しては、批判はしているものの、カルシウムはサクラエビやひじきより少なく、殺菌時にほとんど破壊される可能性が高い上に、日本人は乳糖不耐なので飲まなくてよいと、まあまあ穏やかな論調だったのに対して、最初に紹介した2005年発売の「病気にならない生き方」は、牛乳を猛毒扱いにして、コテンパンに批判しました。
中身はトンデモ話だらけですが、何かを徹底的に敵視するという論法はものすごくわかりやすいので社会的影響力はかなり強く、牛乳の消費量は実際、この本のせいで減ったそうです。
以降も、定期的に牛乳否定本が世に出て、内容はいつも変わり映えしないマイナーチェンジにもかかわらず、一定の影響を与えています。インターネット上も同様なサイクルが続いています。
- スーパーフードになったバター -
逆に、最近、アメリカの最先端のダイエットでは、乳脂肪がスーパーフード的な地位を獲得しています。
2015年に翻訳書が出た「シリコンバレー式自分を変える最強の食事」は、IT長者のデイヴ・アスプリーさんが、科学的根拠の高い栄養学の最新理論を徹底的に研究して編み出したという、痩せるだけではなく、エネルギーと回復力が向上して、しかも頭がよくなって人生の勝ち組になれるというダイエット法を解説した本です。
頭までよくなると言われると眉唾に聞こえますが、一般向けの健康本としては珍しく、巻末に参考文献や論文のリストが掲載され、エビデンスレベルが高そうに感じます。
従来のダイエットの常識を覆してアメリカ人の食生活を変えたと言われ、アメリカでベストセラーになりました。
日本でもとてもよく売れて、最強の食事、あるいは最強というフレーズが、今現在、いろいろな健康本の題名に使われています。
私たちは高脂肪・高カロリーの食事はダイエットの敵と信じてきましたが、この本は、低カロリー・低脂肪のダイエット食品はむしろ全世界に肥満をはびこらせてきたと断言し、正しい食品から十分なカロリーを摂ること、しかも1日のカロリーの50%から70%を正しい種類の脂肪で摂るように提唱しています。この50%から70%という数字はかなりの驚きですよね。
では、彼の言う正しい脂肪は何かというと、何と「飽和脂肪酸」です。特に著者が強く推奨するのは、バター及び動物の脂肪です。これまではコレステロールを増やし、心臓病の原因になるとされていましたが、「60万人以上の被試験者の協力を得た76件の学術研究の緻密な分析」により、心臓病とは関係がないことが判明したと書いています。
バターの中でも、彼が強く推すのが、グラス・フェッド・バター、牧草飼育の乳牛のミルクからつくったバターです。
この本のヒットで、日本でもデパートやスーパーマーケット、通販にグラス・フェッドを名乗るフランス製やニュージーランド製のバターが突如として並び出して、よく売れているようです。
日本でも、バターや卵を食べすぎるとコレステロールが増え、動脈硬化のリスクが高まると考えられてきましたが、今ではコレステロールに対する考え方が、「悪者」から「体にとって必須な成分」に変わってきています。
厚生労働省は、2015年版の「日本人の食事摂取基準」で、食事でのコレステロール摂取制限を撤廃しています。厚生労働省はその理由を、「目標量を算定するのに十分な科学的根拠が得られなかった」と説明しています。
飽和脂肪酸については、今も上限が設定されていますが、「乳製品由来の飽和脂肪酸摂取は心血管疾患を予防するが、肉由来の飽和脂肪酸摂取は心血管疾患のリスクとなっている」というただし書きがついています。乳脂肪はよいのです。
アメリカでも、2014年6月17日号の「TIME」誌で、「この40年余りの脂肪指導は誤りであった」という特集記事を掲載しています。題して「Eat Butter」(バターを食べなさい)。副題は、「科学者は脂質を敵とみなした。彼らはなぜ間違えたのか?」です。
論争は今後も続くでしょうが、ともかく以前のように食品中のコレステロールを気にして動物性脂肪を控えすぎると、逆に体にあまりよくない、という説が主流になりつつあります。
- 多様化するプロセスチーズとナチュラルチーズの出現 -
戦後、ずっと乳製品の王座の座にあったのはバターでした。しかし、1966年に生産量と家庭内消費量でチーズが抜き去りました。
日本で発達したのは、日持ちがして、食べやすい味に加工したプロセスチーズです。三角形の6Pチーズ、ベビーチーズ、スティックチーズなど、独自の形が生まれて、食の西洋化の波に乗って、60年代には消費量が年々20%以上も増え続けました。
フィラデルフィアクリームチーズは1970年発売、カッテージチーズは1955年に協同乳業が製造を始めていますが、知られるようになったのはやはり70年前後からです。1972年にはスライスチーズが発売されました。
こうしてチーズの多様化が始まりましたが、最も衝撃的だったのはが、ナチュラルチーズの登場でした。
それにはピザの流行が関わっています。ピザが入ってきたのはアメリカ経由で、最初はピザパイと、英語で呼ばれていました。
ピザの第1次ブームは1970年代の中盤です。それ以前から冷凍ピザは売っていましたが、皮が固くバリバリで、具は少なく、とても感動できる味ではありませんでした。
ところが、ブームに乗ってやってきた専門店のピザは、何といってもチーズが溶けてビヨンと伸びるのが感動的で、衝撃的でした。
ほかに、フランス料理のオニオングラタンも1973年頃から人気が出て、ちょっとしたブームになりました。スープの上にフランスパンとチーズをのせてオーブンで焼くと、やはりチーズがとろけて伸びるのが受けました。
このように、新しく紹介された料理を通して、チーズにはナチュラルとプロセスの2種類があること、そしてナチュラルチーズは加熱すると溶けて伸びることが一般に知られるようになりました。後に、とろけるスライスチーズが開発されてプロセスチーズも溶けるようになりましたが、日本人の溶けるチーズ嗜好は非常に強く、例えば最近ブームになったラクレットチーズとチーズダッカルビもその現れです。
チーズダッカルビは、チーズがメートルも伸びている写真がインスタ映えで話題になって、人気を集めています。
チーズの裾野を広げた1970年代のチーズケーキ・ブーム
- チーズの裾野を広げた1970年代のチーズケーキ・ブーム -
先ほど名前を挙げたクリームチーズとカッテージチーズは、そのまま食べるのではなく、ケーキの材料として使われ、チーズの裾野を広げました。
戦後のケーキは、1960年代まではショートケーキ、モンブラン、シュークリームの三つが人気を誇り、「三種の神器」と言ってよいほどで、それ以外にはあまりバリエーションがありませんでした。
そこに出現した最初の大ヒット作が、1970年代のチーズケーキでした。そもそもチーズをケーキに使うこと自体が、青天のへきれきでした。
カッテージチーズとクリームチーズは両方とも塩気がなくてやわらかく、生クリームにかわるケーキづくりに最適の材料だったので、マンネリを打ち破る救世主として洋菓子店が飛びつきました。
チーズケーキは、当時の「an・an」や「non-no」など、新しい女性誌が盛んに紹介して、ブームを牽引していきました。
チーズケーキブームの特徴は、長期にわたって何度も多発し、長続きしたことです。70年代にこれほど頻繁に女性誌で紹介されたケーキは、ほかにはありません。チーズケーキの人気は衰えることを知らず、それ以降も現在にいたるまで、チーズを使ったケーキやチーズを使ったデザートは、ことごとく注目を集めています。1990年に前代未聞のブームを巻き起こしたティラミスも、その系譜につながる一つです。
- チーズを使ったスイーツの系譜 -
ティラミスは間違いなく、戦後の流行食の中でも最大級のヒット作です。
ブームのきっかけは、1990年4月12日号の女性誌「Hanako」に載った、「イタリアン・デザートの新しい女王、ティラミスの緊急大情報いま都会的な女性は、おいしいティラミスを食べさせる店すべてを知らなければならない。」という記事だったというのが定説です。
記事はたったの8ページしかなく、しかもその号のメイン特集ではありませんでした。しかし、発売直後からイタメシ屋にティラミス目当ての女の子たちがどっと押しかけて、最初は「また女たちが何浮かれてんだ」と面白半分で取り上げていた男性週刊誌も、次第にこれは無視できないと思ったらしく、異様な流行現象に対する真面目な分析記事を載せるようになりました。気がついたら、あらゆるメディアを席巻して、ティラミス一色になっていました。「ティラミス食べなきゃ時代に遅れる」という雰囲気が世間にあふれ、あの岩波書店の入社試験にも出たそうです。
波及効果は広範囲にわたって、猛スピードで全国展開しました。ブームは約2年で鎮静化しましたが、しっかり定着して、今も人気は健在です。
なぜティラミスはかくも記録的な速度で普及して大ヒットしたかといえば、まず、当時のイタメシブームに乗ったことが一つです。そして、70年代の大ヒット以来、洋菓子界に君臨してきたチーズケーキの一種だったことが大きい。
しかも従来のチーズケーキと違って、とろとろ、ふわふわしたやわらかい食感が、これまでのチーズケーキとは違う新しさを感じさせ、あのヒットが生まれました。
このとてつもないヒット商品で沸き立った食品業界とメディアは、ポスト・ティラミスを必死で探し回るようになりました。
最初に浮上したのは、意外にも、大手パンメーカー製の「チーズ蒸しパン」です。1個120円の商品で、今も健在です。第1号だった日糧製パンのチーズ蒸しパンは、90年11月に月産600万個を記録し、それでも品切れ状態が続くという売れ行きを示し、他社がいっせいに同じような商品で追随しました。
その後、「焼きたてチーズケーキ」というのもありました。直径18センチのホールケーキがたったの500円で、窯出しの熱々ホカホカが買えるのが受けました。タコ焼きやお好み焼きの発想です。
92年頃から全国各地で行列のできるブームが起こり、東京のトップは銀座松屋地下のマゼランという店で、1日2000個から2500個も売れ、常に40~50人が列をなしていました。その後、窯出しバームクーヘンや窯出しカステラなど、いろいろな「窯出しスイーツ」がヒットしますが、焼きたてチーズケーキが「窯出しスイーツ」の第1号です。
2000年代以降は、完全に新しいチーズスイーツは出現していないものの、例えばゴルゴンゾーラを使ったちょっと塩気のあるチーズケーキ、スティック状のチーズケーキ、ティラミスのバリエーション、チーズシュークリーム、チーズプリンなど、従来のものに少しアレンジを加えたチーズスイーツができ、そのたびに必ずある程度はヒットしています。最近ではドリンクタイプのチーズケーキをコンビニで発見しました。
インターネット時代は、みな自分の知りたい情報にだけしかアクセスしないので、知っている人は知っているが、知らない人は全く知らないというように、ブームが局所的になって、以前のような右向け右の大ブームは起こりづらくなっています。しかし、チーズスイーツに関しては、ティラミスやチーズケーキの成功体験が頭に刻み込まれているためネット上のアクセス数が安定して高く、いつでも人気が保たれる傾向があります。
2000年代の健康ブームと牛乳
- 2000年代の健康ブームと牛乳 -
さて、最後の結びに入ります。
文明開化から今日までの150年間に起こった食の流行現象を調べていて気がついたのは、いかに体によい食べ物のブームが多かったかです。
70年代のファストフード、80年代のエスニック料理、90年代のイタメシなど、私が名づけた「ファッションフード」は、時代ごとにトレンドが移り変わっていきますが、いつでも変わらないのが、健康になりたい、健康に役立つものを食べたいという欲望です。
そんなわけで、健康食と健康法、ダイエットの変遷も調べるようになりました。
まず戦後の本格的な健康ブームは、高度経済成長が落ちついた1970年代から始まり、時代を追うごとに健康食の種類と数が多くなって、2000年代に爆発します。
2000年代は、日がわりで健康食あるいはダイエット法が現れて、はやっては消えることを繰り返しました。発信源は主にテレビの健康娯楽番組でした。
2000年以降にはやったものを挙げてみますと、ザクロ、豆乳、にがり、寒天、データ捏造が発覚して有名になった納豆ダイエット、朝バナナダイエット、プチ断食、1日1食ダイエット、酵素、ポリフェノール、チョコレートとカカオ、赤ワイン、黒五、コエンザイムQ10、オルニチン、グルコサミン、ココナツオイル、アサイーなどなど。
最近では赤カブのビーツがスーパーフードとして人気を得たりしていますが、これでも、まだまだ氷山の一角です。中にはかなり怪しいものも含まれています。酵素は完全な疑似科学と言われていますし、最近、グルコサミンは膝に効かないと言われています。にがりにいたっては、死亡事故が起こりました。
このように、これさえ飲めば、あるいは食べれば元気になる、病気が治る、痩せると謳う方法は、今は「スーパーフード」と呼ばれる食べ物は、2000年代までは「1品健康法」「1品ダイエット」と呼ばれていました。
その元祖は最初に話したように牛乳でしたが、残念ながら、2000年代の1品健康法、1品健康食に牛乳は入りませんでした。それどころか、牛乳は体に悪いバッシングする声が大きくなったり、乳脂肪は太ると敬遠されたりで、消費離れが目立つようになりました。
非科学的な健康法、ダイエットの蔓延に対する危機感と反省からか、2010年代に入ってからは、お医者さんの書いたダイエット本、アンチエイジング本が次々に登場して、社会的な影響力を持つようになっています。
例えば、南雲吉則というお医者さんがいます。ゴボウ茶を提唱している人です。この人が書いた「「空腹」が人を健康にする」という本は、2012年の総合ベストセラーランキングに食い込んでいます。
食べ物ではありませんが、2014年度の年間ベストセラー総合第1位は、何と「長生きしたけりゃふくらはぎをもみなさい」という、トホホなタイトルの本でした。日本人は健康本が大好きなのです。
数ある医者の健康本の中で息が長いのは、糖質制限関連書です。今は「糖質オフ」という言い方がポピュラーになっています。
もともと糖尿病の治療食でしたが、確実に痩せられて効果が高いダイエットとして一大ブームになって、もう5~6年経っています。
また、高齢者の健康寿命を延ばし、認知症を防ぐためには、若いとき以上に動物性たんぱく質を摂取すべきという認識も広まっています。それらの影響が大きいと思いますが、空前と言われる肉ブームが今も続いています。
今回のブームは、牛の赤身肉や熟成肉、鶏胸肉と、低脂肪で高たんぱくの肉が特に注目され、これまで肉を敬遠していた女性とシニア層が参入したことが特徴です。
だったら牛乳ブームも起こってもよいのですが、ヨーグルトブームは起こっても、牛乳ブームの兆しはあまりないようです。
幕末から現代までの牛乳をたどってきて思うのは、不老長寿の妙薬とか完全栄養食とか保健食品とか、健康関連の言説ばかりが語られていて、味やおいしさといった、魅力に関する言説が、見事なほど、ほとんど見当たりません。
70年代に第1次自然食ブームが起こったときに、「より自然に近い環境で飼育された乳牛のミルクの低温殺菌牛乳こそが本当の牛乳である」という言説が普及しました。
これも、味というよりは安全性中心の視点です。機能や栄養、安全性の部分だけが注目されるから、体にいいから飲もう、逆に体に悪いから飲むのをよそう、太るから飲まないとなってしまう。
それでは、牛乳というのは、いったいどこがおいしいのか。それは鮮度なのか、乳脂肪の高さなのか、殺菌法なのか。どこで判断するべきなのか。
嗜好には個人差がありますし、メーカーはよりおいしい牛乳をつくろうと努力していると思いますが、本質的なおいしさを語る言説があまりにも少ない。
味に個性が少なく、組み合わせる相手を引き立てるのが牛乳の特性であり美点だとは思いますが、ワインのようにテイスティングをしながら、味の基準がわかりやすい言葉で語られると、飲み物としての魅力がもっと備わるのではないかと、150年の歴史、言説、流行現象などを調べていて感じました。
これで終わります。ご清聴、どうもありがとうございました。