私が学生の頃、下宿をしておりました。銭湯に行くと湯上りに牛乳を買い、腰に手を当てて飲んだ時に、何で牛乳は白いのだろうかと不思議に思いました。それがきっかけでこの世界に入ることになりました。
多くの人はミルクが何故白いのか不思議に思わないと感じます。大学で講義をする際に学生に何故ミルクは白いのかを考えたことがありますかと質問することがあります。すると、誰もがそんなことは当たり前だと思っていたという答えです。ですが、いろいろと探っていくと分からないことが沢山あります。私たちが今この世の中に存在していることもミルクが白い理由のひとつなのです。そういった奥の深いお話をしてみようと思います。
ミルクは何故白いのかということが最初の入口です。脱脂乳を電子顕微鏡で見ると黒いツブツブが沢山見えます。このツブツブのことを「カゼインミセル」と呼んでいます。大きさは直径100~500nm(ナノメーター)位のコロイド粒子と言われています。ナノメーターという単位は100万分の1mmでして、肉眼はもちろん一般的な顕微鏡では見ることができません。電子顕微鏡で見ることができる世界です。「カゼインミセル」と呼ばれているものは凝集物なのですが、「カゼイン」というタンパク質からできています。「カゼイン」というタンパク質は4種類あります。αs1(アルファ・エスワン)カゼイン、αs2(アルファ・エスツー)カゼイン、β(ベータ)‐カゼイン、K(カッパー)-カゼインの4種類が知られています。
αs1(アルファ・エスワン)カゼイン、αs2(アルファ・エスツー)カゼイン、β(ベータ)-カゼインはカルシウム存在下で沈殿する性質を持っています。カゼインは全てリン酸が付いており、リン酸化タンパク質とも言われています。リン酸にカルシウムが付いて沈殿してしまいます。一方、K(カッパー)-カゼインはリン酸基が付いていますがカルシウムがあっても沈殿せず安定して存在します。これら4種類が上手く組み合わされて「カゼインミセル」となって牛乳中の水分の中に安定的に分散しております。ミルクに光が当たると、乱反射して白く濁って見えるということが大きな理由です。
「カゼインミセル」からミネラルを抜く操作をすると「カゼインミセル」を小さく分解することができます。分解することを「解離」と言います。また、逆に大きくなることを「会合」と言います。小さくするとおよそ平均直径20nm(ナノメーター)の小さな粒子群に分解していきます。最初は白いのですが、分解を進めていくと最終的には黄緑色になります。これはリボフラビンの色で、白いものが白くなくなってしまう現象です。大きさが小さくなると乱反射しなくなり、リボフラビンの色が出てきて黄緑色に変わってきます。
「カゼインミセル」に光が当たって乱反射して白く見えるということが確かなことだと言う事ができます。ここまでが、このテーマの入門的なお話です。
ここから次の段階に入るといろいろと分からない(解明できない)ことが多くなってきます。それでは、ツブツブである「カゼインミセル」はどのような構造をしているのか、皆さん興味をお持ちになります。昔からいろいろな人が電子顕微鏡を使ってその構造を調べて来ました。
「カゼインミセル」は小さな粒子が積み重なったような、例えると鮭の卵の「いくら」が固まっているように見えます。小さなツブツブ一つ一つのことを「サブミセル」と呼んでいます。「カゼインミセル」は小さな「サブミセル」が沢山集まって形成されているという考え方があります。これを「サブミセル説」と呼んでいます。
一方、黒い点々だけが見えて「いくら」が集まったようには全く見えない写真も報告されています。この写真には小さな黒い点々が多数観察されており、これらを「ナノクラスター」と呼びます。これは「サブミセル」は無いという考え方で、これを「ナノクラスター説」と呼びます。
「カゼインミセル」の構造はベールに包まれています。電子顕微鏡で「カゼインミセル」を観察しても方法によって異なる画像が得られます。
電子顕微鏡写真の他にも科学のあらゆる分野、物理、化学、生物などの方々が様々な観点からこの構造を明らかにしようとし、様々なモデルが提案されています。その中で主なものが「サブミセル説」「ナノクラスター説」です。日本の教科書には「サブミセル説」は紹介されていますが「ナノクラスター説」は未だ紹介されていません。後者が新しい考え方です。最近の日本の大学ではカゼインのことを研究している方がいなくなってしまったために、テキストが新しく改訂されていないため、昔からの「サブミセル説」が記載されている訳です。ただ、海外では「ナノクラスター説」を支持する人々が増えてきております。
両説のどちらが正しいのか、あるいはどちらも違うのか現在のところ結論が出ていません。電子顕微鏡で観察すれば見えているのですが、なかなか本当の姿を見せてくれないのが「カゼインミセル」の不思議で謎の多い存在です。
私たちは、メーカーで乳製品を加工している際や新製品を開発する場合、なぜそうなるのか原因を探っていくと「カゼインミセル」の構造やその性質がどのように影響を与えたからこのような結果や性質・機能が出現するのか、理由付けをしたいと思っています。
牛乳はカルシウムが豊富だということは誰もが認めることだと思います。
五訂の食品成分表によれば牛乳中のカルシウムは100ml中110mgとなっています。欧米では120mgと表記されているものもありますが、日本の五訂の成分表ではではそうなっています。この内、約80%がリン酸カルシウムになっています。これは、カルシウムとリンが結合したもので中性では殆ど水に溶けません。私たちの骨や歯はリン酸カルシウムでできています。もし、リン酸カルシウムが水に溶けやすければどうなるかというと骨や歯は溶けてしまいます。そうすると、動物は、昔に想像で描かれた漫画の中の宇宙人や火星人のように軟体動物系になってしまいます。
逆に、リン酸カルシウムが水に溶けないとどうなるかというと、牛乳中には大量のリン酸カルシウムが入っている訳ですから沈殿してしまうことになります。沈殿してしまうと乳腺が詰まってしまい、赤ちゃんにミルクを与えることができないことになります。つまり、リン酸カルシウムが沈殿してしまうと哺乳類はこの世に誕生しなかったことになります。
リン酸カルシウムを沈殿させない仕組が「カゼインミセル」にあるのです。したがって、「カゼインミセル」があることにより牛乳は白く見えるわけです。牛乳が白いということは哺乳類が誕生できて繁栄していることの根本であり、まさに「カゼインミセル」が、リン酸カルシウムを詰まらせないようにしているからなのです。
つまり、牛乳が白いということは哺乳類がこの世の中で存在できることの必須の条件なのです。非常に奥が深く、ある意味哲学に近いということができるのかも知れません。
何故、乳腺が詰まらないのかというと、水に溶けないリン酸カルシウムを「カゼインミセル」の中に閉じ込めて安定化させたのです。どうやって安定化させたのか。「カゼインミセル」の働きは水に溶けにくいリン酸カルシウムを大量に且つ、安定的に供給できることです。その働きがなければミルクを赤ちゃんに与えることはできなかった。つまり「カゼインミセル」が創造されなければミルクは生まれなかった。そして、哺乳類は誕生しなかった。
「カゼインミセル」がカゼインというタンパク質やリン酸カルシウムといったミネラルを子供に飲ませたために骨や歯が丈夫になり、あるいは筋肉が付いたりして成長ができるわけです。