第95回 牛乳・乳製品から食と健康を考える会開催

栄養改善のスター、新しい国民食糧

栄養改善のスター、新しい「国民食糧」

このように子どもたちが学校給食で体力を取り戻しつつあった占領期に、GHQの指導というか命令により、厚生省の主導で、栄養改善運動が始まりました。
栄養改善のモデルになったのは、肉や卵や乳製品、油脂の摂取量が多いアメリカの食生活でした。
1946年から行われた国民栄養調査では、当時、摂取熱量の9割が穀類と芋類から摂られ、しかも、カロリー自体が絶対的に足りない。飢餓や餓死と隣り合わせだった日本人の栄養不良状態を、炭水化物の比率を減らし、動物性たんぱく質、脂質とビタミンやミネラルの摂取量を増やして健康増進を図ろうというのが改善の目標でした。

戦後の食は劇的に西洋化、国際化していきますが、その出発点がここにあります。
独立を回復した1952年には栄養改善法が公布されて、54年からはキッチンカー(栄養指導車)、キッチンつきの車が町や農村を巡回して、料理を実演しながら栄養講習をしました。なかでも牛乳とバターを使った新しい料理は、注目の的だったようです。
栄養改善のスローガンには、「ビタミンをとりましょう」、「粉食をとりましょう」、「1日1さじの油を」、「1日1回フライパン運動」など、いろいろありましたが、何より最初に来るのが、「たんぱく質をとりましょう」でした。
中でも、たんぱく質と脂質とビタミン、ミネラルをバランスよく含む牛乳が、理想的な「完全栄養食品」として栄養改善のトップスターに踊り出ました。

敗戦から4年間は牛乳の生産は落ち込んだままでしたが、1950年に統制が解除されて自由販売になってからの伸び率は驚異的で、戦前のピークだった1940年の生産量を、その翌年の1951年に突破し、毎年平均して前年度比で2割以上も伸びていきました。戦後20年で1人当たりの消費量は約10倍に増加して、「新しい国民食糧」と呼ばれるまでになったんです。

池田内閣が1960年に所得倍増計画を打ち出したときに、社会党は「全国民に牛乳3合を」というスローガンで対抗したくらいです。
女子栄養大学の香川綾さんの名言に、「牛乳を飲まなくてはとても文明国とは言えない。最低でも1日に1本半、いつの日にか欧米人並みに1日3本飲めるような国を目指そう」というのがあります。健康的で豊かな生活の目安が、1日3合、1日3本の牛乳だったわけです。

ホモ牛乳の大ヒットと加工乳・乳飲料の氾濫

「ホモ牛乳」の大ヒットと加工乳・乳飲料の氾濫

こうして牛乳が「新しい国民食糧」と呼ばれて食生活に浸透していくにつれて、牛乳の多様化が始まりました。

先鞭をつけたのが、1952年発売の「森永ホモ牛乳」です。日本で初めての脂肪を均質化した牛乳で、それまでの脂肪を均質化しない牛乳より消化吸収がよいというのが売り文句でした。しかも、カルシウムの吸収を助けるビタミンD入りです。
52年は朝鮮戦争の特需景気の最中で、しかも主権を回復した年でしたから、ただ空腹を満たすだけではなく、より栄養があっておいしい食べ物を求める気持ちが大きくなってきた頃です。
サトウハチロー作詞のCMソングが全国のラジオで流れて、レコードにもなったのが画期的でした。このとき登場したのが、太陽の中に顔が入ったキャラクターのホモちゃんです。子どもたちが、これが印刷された瓶から飲みたくて、お母さんにねだってほかの牛乳から「森永ホモ牛乳」に変えてもらった昔話をよく聞きます。

同じ昭和30年代に、コーヒー牛乳やフルーツ牛乳などの甘い「色物」系牛乳も続々と発売されて、しかも牛乳だけではなく明治のパイゲン、雪印のカツゲンなどの乳酸菌飲料も加わって、国民食糧というよりは嗜好飲料の趣になり、消費がどんどん拡大していきました。
風呂上がりの牛乳が銭湯の名物になったり、朝、牛乳スタンドでお父さんたちが牛乳瓶を一気飲みする姿が鉄道駅の風物詩になったりしたのも昭和30年代からです。
家庭に冷蔵庫がまだそれほど普及していなかった時代なので、冷えた牛乳は清涼飲料感覚で楽しむ健康飲料でもあったわけです。

牛乳はまだまだ季節商品で、夏は冬の2割増し売れたそうです。
ただ、加工乳は普通の白い牛乳より値段が高く、それに対する不満が高まっていきました。

産直システムの先駆けとなった主婦連の十円牛乳運動

産直システムの先駆けとなった主婦連の「十円牛乳運動」

牛乳が米に次ぐ重要な国民食糧と呼ばれるからには、値段が問題です。牛乳の1瓶の小売価格は1950年に12円。それから毎年1円ずつ着実に値上がりして、53年には15円になりました。
今の感覚でいうと大体150円ぐらいではないかと思います。そこで、1954年(昭和29年)から、値上がりに怒った主婦連合会(主婦連)が、生産者と直結した「十円牛乳運動」を展開します。

10円の中の取り分は、生産者が5、メーカーが3、配給所2の割合でした。15円だった牛乳が10円で買えると飛ぶように売れて、販売店、メーカーとの摩擦も大きかったようですが、後に全国酪農業協同組合連合会と提携して、全国各地に広がりました。
残念ながら、その後の原乳値上げと配給所の人手不足により、5~6年で十円牛乳は消えてしまいました。
しかし、運動が始まってから実際に牛乳の小売価格は値下がりし、また、この運動自体、産直システムの先駆けとして、日本の消費者運動史上、記念すべき出来事とされています。

家庭料理に入った牛乳

家庭料理に入った牛乳

飲むのが中心だった牛乳が家庭で料理に多く使われるようになったのは、1960年代にスーパーマーケットが各地に増えて、1リットル入りの紙パック買いをする生活スタイルが定着してからのことです。当時はまさに高度成長期の真っ最中です。高度経済成長は、高度栄養成長の時代でもありました。

1962年版の国民生活白書には、食生活の高度化と食料消費の4つの特色が挙げられています。
第1に、肉と乳と卵の消費が、1960年以来、毎年10%から20%も前年同月を上回って、特に最近の増加が著しいこと。
第2に、加工された食品が増加していること。
第3に、外食費の増加。
第4に、家庭での米消費が停滞していること。
この4点です。生活が向上するにつれて、本当に日本人はご飯食いからおかず食いに変わっていって、米の1人当たりの年間消費量は、1962年の118.3キロをピークに、右肩下がりに減少していきます。

牛乳を使った家庭料理の代表格は、ホワイトシチューです。
少ない肉でも液体分を増やせばボリューム感が出る経済料理なので、戦後の学校給食の副食として頻繁に登場して、子どもたちも食べ慣れていました。
給食のシチューは、脱脂粉乳を入れて小麦粉でとろみをつけただけの粗末なものでしたが、この頃になると、お母さんたちは料理の教科書通りに、ちゃんと小麦粉をバターで炒めてルーを作り、牛乳で伸ばしたホワイトソースで、本格的なシチューにチャレンジするようになっていたのです。
このホワイトシチューは、しゃれた洋食なのにご飯に合うのも人気のポイントでした。さらに、1966年にハウス食品からインスタント食品の「シチューミクス」が発売されて、ルーなしで作れるようになってから、家庭料理の定番として定着していきました。

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