第95回 牛乳・乳製品から食と健康を考える会開催

黴菌との戦い

黴菌との戦い

明治から戦前までの育児書を読んでいくと、人乳との優劣に増して、どの本でも、牛乳の鑑定法や選び方、消毒法、貯蔵の仕方、要するに安全性に多くのページが割かれています。逆に言うと、それぐらい不良品による健康被害が多かったのです。
流通と保存が未発達な時代の牛乳は、生産地と消費地が接近していることが絶対条件で、それでも腐りやすくて長くは置いておけないため、まだ暗いうちに搾ったものを朝に1回、午後に搾ったものを夕方に一回と、1日2回ないしは3回配達することが普通でした。
しかし、例えば東京の場合、赤坂あたりの牧場兼牛乳屋が深川まで遠路はるばる届けるなど、かなりの距離を、時間をかけて配達することも珍しくなかったので、特に夏場は腐敗のリスクと隣り合わせでした。

科学的知識のなかった初期の牛乳屋は、酸っぱくなったら砂糖を混ぜれば飲めると言ったり、凝固した牛乳はよく混ぜてから飲めと言ったり、危険な販売をしていたそうです。
牛乳の衛生対策のために「牛乳営業取締規則」が施行されたのが1885年(明治18年)でした。
しかし、結核のように人にも感染する病気にかかった牛の乳を搾ったり、牛乳に米のとぎ汁を入れてかさ増ししたり、傷んだ牛乳に薬物を入れてごまかしたりする悪徳業者も多かったようです。

牛乳は栄養豊富なだけに、ばい菌の温床になりやすいと、煮沸消毒の重要性がさらに強く説かれるようになったのは、1900年代、20世紀になってからです。
明治33年(1900年)に、より厳しい内容に改正された「牛乳営業取締規則」が公布され、翌年に「牛乳消毒及検査法」という専門書が発表されてから、育児書もそれにならって、牛乳のばい菌に対して敏感になっていきました。
これには北里柴三郎や志賀潔、野口英世など、日本の細菌学者たちの活躍も影響していると思います。

ヨーグルトが不老長寿の妙薬として登場して話題を集めたのは大正時代です。当時の有名な学者の中には、今の牛乳屋には細菌を試験する施設はないから、最初はよくても、ブルガリア菌をきちんと保存できるかどうか疑問を呈したり、雑菌が繁殖する危険があるので、不老長寿の薬と思って食べても恐ろしい伝染病にかかったり、発酵が腐敗に転じることもあると、警告しています。
冷蔵保存設備がない時代だったため、結局、ヨーグルトはブームにならずに自然消滅して、カルピスのように保存できる乳酸菌飲料が人気を得ました。

63度以下30分以内の低温殺菌が法律で定められたのは昭和2年です。家で沸騰させるより風味やビタミンなどの成分が保たれ、しかも細菌は死滅していると、消費者に歓迎されました。
それでも家庭用の冷蔵庫はまだまだ普及していなかったので、家に届いてからの状況はあまり変わらなかったでしょう。
このように、牛乳は不老長寿の妙薬として颯爽と登場して、さまざまな議論を呼びながらも、戦前までにかなり普及していました。
しかし、昭和15年11月から牛乳が配給制になって、母乳の足りない満1歳以下の乳児と病気の人だけに配給されるようになりました。
たんぱく質のカゼインを飛行機の接着剤に使うために、牛乳の増産が促されましたが、戦局が悪化するにつれて、牛を飼う飼料も労働力もなくなって、戦前までの牛乳文化は壊滅してしまいました。

終戦直後の食料事情

終戦直後の食料事情

そして戦後に入ります。終戦直後の食料事情がどうだったかというと、1945年の夏はまれに見る冷夏で、大凶作に見舞われました。その上、敗戦で、重要な米の供給地だった朝鮮と台湾からの米が入ってこなくなりました。なおかつ、海外にいた日本人と軍人が一斉に帰国しました。引き揚げ者と復員軍人の数は660万人です。人口が急激にふくれあがったのに、米が例年の半分くらいしかないという、まさに泣きっ面にハチ、ダブルパンチの悲惨さでした。
食糧難は戦中よりさらに悪化して、米の配給量は2合3勺、330グラムから30グラム減って300グラムになり、しかも配給が遅れること、なくなることがしょっちゅうでした。
おかずが少なく、米でほとんどのカロリーを摂る必要があるのに、300グラムの米からとれる熱量はたったの1,100キロカロリー弱しかありません。

配給の食糧では1,500キロカロリーがやっとで、実際はもっと低く、1,200キロカロリー程度だったという説もありますし、東京都民の場合は配給だけでは775キロカロリーしか摂れなかったという恐ろしいデータもあります。
都市部では栄養失調による餓死者が続出しました。上野駅付近の餓死者は1日平均2.5人、大阪では1日60人以上が亡くなりました。1,000万人が餓死をするという説が流れたくらいです。
悲惨だったのは食糧難の戦中戦後に成長期を過ごした子どもたちで、身長、体重ともにそれ以前よりずっと小さくなってしまいました。そこに登場した救いの神が、“ララ物資”の脱脂粉乳でした。

学校給食の主役になったミルク

学校給食の主役になった「ミルク」

「ララ」はアメリカのキリスト教団体など13団体が加盟して組織された慈善団体です。
ララ物資のうちの75%が食料。その中には、生きた乳牛が45頭、ヤギが2,036頭も含まれていました。これらはもちろん、ミルクを搾る用でした。
ミルクと片仮名で呼ばれたララ物資の脱脂粉乳と缶詰を中心に、進駐軍の携帯食料や旧日本軍の貯蔵物資も使って、1947年1月、まず主要都市の児童300万人に対して学校給食が始まりました。
このときのメニューは、ミルクとみそ汁やシチューなどの汁物だけで、「ミルク給食」「汁給食」と呼ばれました。

脱脂粉乳を液体化するときは、約25グラムの粉乳を1合2勺(216ミリリットル)の湯で溶いたのが1人前でした。うまく配給があったときは人工甘味料のズルチンやサッカリンを混ぜて甘くしました。ズルチンはその後、発がん性があることがわかって使用禁止になった危険な甘味料です。
この当時の脱脂粉乳は、まずかったことで有名です。このまずさには幾つか原因がありました。もともとララのミルクは5年貯蔵品だったため初めから臭かったこと。製造法が今とは違って、もともと粒子が粗かったこと。しかも、ララ物資の頃は木の樽に詰めてあったので、湿気を吸って固まってしまって、金槌で叩いてザルで漉してからでないと溶かすことができない状態でした。
これを鍋で煮ながら溶いているうちに底が焦げついて臭くなったり、粒や塊が溶け切らずに残っていたりしたんです。

1949年からはユニセフからのミルク援助が始まって、いわゆるユニセフ給食がスタートしました。ユニセフ指定校になった全国の55校には、何と1人1日100グラムもの脱脂粉乳が支給されて、体格検査が実施されました。人体実験みたいなものですね。昭和医科大学の調査によると、身長と体重は指定校の学童のほうが著しく伸びたが、座高は両者に違いはなく、胸囲は逆に指定校ではない方の伸び率が高いという結果が出ました。つまり、ミルクをたくさん飲んだ方が、足が長くてスラッとした体形に変わって、通常の量の子どもたちはがっちりして足が短い日本人体形を維持したという結果です。
この汁給食までは副食が主体で、主食は各自が持ってきていましたが、1950年からは、アメリカから寄贈された小麦粉を使った「コッペパン、ミルク、おかず」の完全給食が全国8大都市の小学生に実施されました。

おかずも、汁だけではなくて固形物が出るようになりました。ただ、相変わらずミルクは嫌われていて、窓の外に捨ててしまう子どもが多かったそうです。
そこで提唱されたのが、“三角食べ”という食べ方です。まずミルクを一口、パンを一口、おかずを一口と、三角に食べていく方法です。
“三角食べ”が始まったのは1970年代に学校給食で白飯が出るようになったのがきっかけで、ご飯と汁とおかずをバランスよく食べることと、口内調味で繊細な味覚を育てるためだったと解説している資料が多いですが、実は、早くも1950年代に、ミルクを飲ませるために給食の先生たちが考え出した方法だったんです。

しかし、どんなにミルクがまずくても、嫌われても、脱脂粉乳で栄養改善できたことは確かで、子どもたちの身長と体重は年を追うごとに大きくなっていきました。

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