第92回 牛乳・乳製品から食と健康を考える会 開催

「家族経営酪農の現状と未来に向けた課題」

【日時】
平成30年2月19日(月) 15:00~17:00
【会場】
乳業会館3階 A会議室
【講師】
吉田牧場 代表 吉田恭寛
吉田牧場 代表 吉田恭寛
【出席者】
「牛乳・乳製品から食と健康を考える会」委員
消費生活アドバイザー 碧海 酉葵
毎日新聞 記者 今井 文恵
ジャーナリスト 岩田 三代
江上料理学院 院長 江上 栄子
消費生活コンサルタント 神田 敏子
評論家・ジャーナリスト 木元 教子
作家・エッセイスト 神津 カンナ
元日本大学教授 菅原 牧子
ジャーナリスト 東嶋 和子
産経新聞 文化部記者 平沢 裕子
(50音順)
乳業メーカー:広報担当
乳業協会:田村専務理事、本郷常務理事他
専門紙記者
出席者出席者出席者
【内容】
今回は、委員の皆様からご要望のあった、「日本の酪農家の現状」について、ご講演を企画した。埼玉県秩父地方で酪農業を営まれ、「酪農教育ファーム」として、子供達に酪農体験を通じて、食や命の大切さを学ばせている吉田牧場様を講師に迎え、出張授業も行ない、酪農担い手作りに尽力されている姿、堆肥利用促進による資源循環型農業で地域応援されている活動、酪農業の将来像など、都府県酪農を理解するうえで、興味深いご講演を頂いた。
【要旨】
牧場経営の特徴として、(1)資源循環型農業への取組み(2)エコフィードで飼料費削減に尽力(3)地域社会との調和や活性化への貢献がある。生乳生産現場の現状としては、増加する廃業者、酪農産業構造の変化、6次産業化と輸出だけでは解決出来ない課題、肉用子牛バブルへの警戒や畜産クラスター関連事業への功罪について言及。また、後継者問題では、牛舎と住戸が離れていれば、欧州の一部で見られる様な牧場レンタル方式で第3者への経営譲渡の模索により、国内の酪農生産力の保持に望みを託すことを示す。今後益々、生産現場からの情報発信と理解醸成が重要である。最近の農業高校ブームや酪農女子の活躍など、酪農業界を明るくする希望の光もある。

埼玉県秩父小鹿野町の酪農家3代目の吉田です。日本の酪農は、まだ本格的に始まってから長い歴史があるわけではなく、私のような後を継いだ者は3代目が多いと思う。毎日牛乳を搾って出荷し、子供達に牛乳を飲んでもらっている現場の気持ち、今まで感じていることを含めてお話する。途中ビデオ等を見ていただいたり、実際に牛が食べている餌のにおいも感じていただいて、現場の雰囲気を味わっていただければと思う。

参考資料:吉田牧場について(7ページ/約760KB)

家族経営の酪農家としての、現状とスタイル

今、非常に酪農の形態が変わりつつあり、私達の様な家族経営が一体今どうなっているのかをお話する。
まず、牧場と言うと北海道の広い草原とか、トウモロコシの畑とかを思い浮かべるかもしれないが、私の住む秩父は非常に山が急峻で、大型機械で飼料作物を作ったり、牛の餌となる牧草を作りにくい状況である。そういう中で、乳牛を70頭。うち経産牛が50頭。牛は2年たたないとお産をしないので、その育成牛が20頭。経産牛が50頭いると、その牛が毎年お産をして、子牛が生まれる。今、子牛には黒毛和牛と言って肉用の牛を種付けすることが多い。それで生まれてくるのがF1(一代雑種牛)と呼ばれる。または、和牛の受精卵移植ということで、黒毛和牛のお母さんから受精卵を取って、それを乳牛であるホルスタインに移植する技術があるが、それから生まれた和牛を飼ったりしている。一応耕作面積は3haあるが、ほとんど傾斜地なので、畑の作業をすることがなかなか出来づらい場所でもある。

普通の酪農家と少し変わっているのは、子供達の前でお話しする食育活動をやっていることである。また、広い畑があれば牛糞をそのまま畑の肥料として使えるが、それを持たないので、一体どう解決していくか就農、農業を始めた当時から課題なので、その辺を含めてお話する。
3代目なので、一体どの様に牧場が出来てきたかを、話すと、現在妻と息子が1人。息子は今大学2年生で秋田にいて、それと両親の5人家族。労働力は4名だが、両親も80歳を超えているので、労働力と言えるかどうか、肥育牛の世話で、お肉になる牛を管理している。私と妻が酪農担当で乳牛の面倒を見るというのが今のスタイル。

牧場の始まりは、昭和21年に祖父が牛を導入したのが最初。その頃は牛乳を搾るためではなく、畑を耕したり、あとは何よりも秩父の畑は痩せているため、肥料が欲しいので、田んぼの周りの草を刈って牛にあげて、糞はそのまま肥料にする。当時は、養蚕やたばこの栽培を一生懸命やっていた。
父が昭和28年に、酪農を専業でやりたいということで、酪農部門を徐々に拡大した。当時は、今の様な牛乳の取引ではなく、乳業メーカーから非常に手厚い支援をして頂いた。獣医を派遣してくれたり、色々な餌を世話してくれたりしていた。その後、東京オリンピックが終わり、昭和40年くらいから高度経済成長期で牛乳を求める声が非常に多くなって、酪農を専業として牛を増やしていった。

牛を増やすに当たり、牛が食べる草はそれまでは田んぼの草とか畑の草を自分で刈って与えていたが、頭数が増えてくると、輸入の乾牧草などを与えるようになった。生産が伸び、昭和61年に私が就農し、まず一番最初にやったのは、堆肥舎の整備と第2牧場で、肉牛部門をやりたいということで始めた。
その後、色々親子関係で問題があり、違う仕事がいいかなと思い、長野の方にログハウスづくりの勉強をしに行き、半年ほどログハウスづくりをした。その頃から牧場にログハウスを作って消費者交流をしたいということで、アメリカからログハウスを輸入して売店を作った。今で言うと6次産業化という言葉で簡単に表現ができるが、当時は、その言葉もなく、なぜ牧場で酪農家がお店みたいなものをやるのか、とよく言われた。それでも自分の搾った牛乳でジェラートを作り、そのジェラートの副原料にも地元の果物を使う売店を始めた。

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